家族のキャパシティ
2026.04.11
一昨日の日記で苦しみを誰かに伝えるのは有限のキャパシティの中で注ぎ変えているに過ぎないと述べたけれど、家族とはまさにそういうものだなと思う。
家というオフ空間の中で、誰か一人がイライラしていて、それを家族に押し付けることで発散しようとしているけれど、そうしたらその家族がイライラしだして、次は私に押し付ける。
誰も余裕はないから、誰の心にも注ぐべきじゃないなと思う。
だから人は自分の世界観を作って、自分の中で処理するようになるんだと思う。
人間はみな孤独だ、大衆の中の孤独だ。
コミュニケーションの中で誰かに演技をしてその場を楽しむことは、孤独を癒すが、それもまた孤独だ。
だから創作をするんだろう。
具体の宛先がないものを作って、誰かに読んでほしいんだろう。
でも、それは酷く難しい。
苦しみは本来人に伝えれば人のキャパシティを圧迫するものだった。
それを美しい芸術へと変換し、共感を呼ぶには、自分という人間が優秀なコンバータではなくてはならない。
大きな苦しみを目の細かいものに入れて、それをペンにして立体像を作るようなものだ。
布を開いて誰かの心に捨てることができたらどんなに楽なことか。
もしくは、広大な海にそれを投げ捨てるかだ。
自殺の抽象的原因は孤独だと思う。
持続可能な人生を保つにはそれをどうにかしなければならない。
どうすればいいのか、それを見つけることすら孤独で、それが人生なんだろうとはある程度納得はしている。
世界とはヒントでしかなくて、だから量転為質が必要なんだ。
澪律を見つけなければならない。
酷く孤独だ。