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感情ミュートと信頼できない社会


2026.04.12

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現代社会において人間が冷たくなってきているというのはすごく感じていて、それは知らない人に道を教えるおばちゃんとかだけじゃなくて、友達の間ですらその傾向はあると思う。

SNSでプライベートが公開されつつも、個人主義が進行していて、個人と個人の間での感情の切り分けが明確になっていると思う。

インターネットで情報があふれながら、個人の間では感情をミュートしていった結果、事実の共有がコミュニケーションの中心へと移り変わっている。

動物のかわいい動画を共有するのは事実の共有だけど、それに対してかわいい~♡とひたすら言うのは、大げさで単純な感情の表明で、現代の人間は明らかに感情のコミュニケーションが下手になっていると思う。

その象徴が「ヤバい」「エモい」みたいな一言で様々な様子や感情を包容する形容詞の誕生だと思うし、もはや人は「○○でヤバい」「○○で鬱」「○○でしぬ」みたいな事実+大げさで単純な形容詞の組み合わせでしか感情を表明できなくなった。

決して現代の人間に感情がなくなったわけではないと思うけれど、それを表現する能力が落ちている気がする。

事実をやり取りしてそれに一言感想をつけるだけならAIで十分代替可能で、もはやコミュニケーションが希薄になってきている。

だからこそ人々は大衆の中の孤独に至っているのだと思うし、「ヤバいんやけど~」などといいつつ、そこに本質的な人間同士の温もりを求めていると思う。

本来事実ベースの話題は、会話の道具であって、それ自体への興味というのもありつつ、それを踏み台にあなたと話したいんだという気持ちがあると思う。

結局人は寂しいんだという結論は私がそうだから他人にもそれを投影しているだけかもしれないが、自分だけが感情をコミュニケーションで出してもそれに応える人がいないと無意味であるのもまた事実である。

最近Discordにありがちな「#解放」「#許容」「#没ツイート」みたいなチャンネルや、Twitterみたいな誰かに必ずしも返信を求めるわけではないSNSは感情を吐き出す場になってはいるけれど、それは人に向かって感情を吐き出すことができずミュート状態になっているからこそ、溜まっている"キチゲ"を解放する場が設けられるという結果になっているのだろう。

昔は誰か仲の良い友達と個人LINEで雑談するというのも日常であったが、それもすっかりなくなり、自分もまた感情を人に露出することへの恐怖を感じている一人なんだと思う。

感情を吐き出すということ自体に、相手のリソースを割くだろうという配慮をしてしまうし、会話の中心が特定の人に返信を強いるわけではないSNSやグループチャットに変わってきているのは、その配慮と恐怖の結果だろう。

誰もが感情ミュートをして心の中に感情を秘めているのであれば、誰かと感情を交換するのを求めているはずなのに、それを実際にできないのは、相手を信頼できてないということでもあると思う。

互いのリソースを割くことについて、ある程度は知人として許容してくれるんだと相手を信頼する必要があると思うな。

相手が本当に自分のことを好きでいるのか、同じ環境にいるから仕方なく付き合っているのではないかとどうしても疑心的になってしまうのは、感情ミュートで社会が冷たくなった結果だと思う。

相手から愛されているか不安だから感情ミュートに至るのか、感情ミュートに至ったから相手に愛されているのか不安なのか、その順序は分からないな。

感情ミュートがこのまま進行すれば、もはや情報を取引するだけの事実ベースの社会になってしまって、人間が生きている意味もなくなってしまうな。

もはやAIの方が情緒ある社会、そんなに遠い話ではない。