関西弁とお姉さんとキャパシティ
2026.04.09
全員の言語化能力がすごく高いので、こういう人生相談的な感じの話をされると頭がすっきりする。
堀元見という人間は、やっぱり面白さを価値基準にしていて、そこにちょっと共感する。
彼の場合下ネタや極端な言いぐさを特徴としているから、私と同じとは言えないけど、構造に共感する。
彼は面白いし、強い主張をするから、強い人間に見えるけれど、中身は陰キャでネガティブな思考が占めているというのが面白い。
古着屋巡り行ったときに帰りでぽろっと「急に性格変わったんだよね~調子乗り的な」って言ったけど、もしかしたらこの人の影響を受けているのかもな。
多分私は結構論理的な方だから、論理的=正しいことであり、言うべきことという考えが中1くらいのときにはあったんだと思う。
それが変わったのがUBCと堀元の影響で、面白いかどうかが価値基準に変わっていったんだと思う。
今まではツッコミ役の側面が強くて、グループの中で面白い人やリーダーシップのある人がいて、それに対して応答するという会話の仕方をしていたけれど、最近はボケることも多い気がする。
多分自分という人間は自覚しているより変な人で、それなのに普通の人として論理的に生きようとしていたからズレていたのかもしれない。
人生は欲求の連続なのだから、面白いかどうかで生きることは結構理にかなってるし、今の性格は悪くないと思う。
ただ、一方でこうやって文章で冷静に批評しているというのもいびつかもしれない。
人と接しているときにテンションが変わるのは人間として必然かもしれないけど、それによりコミュニケーションにおける自分が定義されているのに、一方で一人で部屋で文章を書いている自分もこうやって公開しているから、おかしくなるのかもしれない。
インターネットの普及によってそれが当たり前になって、本来ある観測者にとって片方しか観測できないはずの自分が両方露呈することによってテンションの差が生まれてしまうのは少し矛盾的でもある。
演者としては多分、コミュニケーションにおける自分の態度をベースに、インターネット上で態度を表明して一貫性を維持する方が面白いとは思うんだけど。
ふたつばラジオ第一回で言ったのもそういう背景があって、リアルでテンションの高い自分と、ネットでテンションの低い二葉を上手く擦り合わせていきたいと思っているという話になる。
もちろんどっちも本当の自分ではあるし、根底にある思想は同じだから結局テンションの差でしかないとは思うんだけど、そこを擦り合わせていくことでより面白い人間であれると思う。
面白いっていうのが価値という世界観のおかげか、最近関西弁の訛りが強くなってきている気がする。
これは関西弁マインドを、関西弁を喋ることで一致させようとしているという動向だと思う。
だからリアルの自分と文章の自分という対の構造は、関西弁マインドと標準語マインドの話でもあると思う。
おそらく昔の自分は標準語マインド≒論理的で、価値基準が「正しいかどうか」から「面白いかどうか」に変わるにつれて関西弁マインド≒面白さに変わってきた。
そして、それは転換ではなく二面化で、裏表ができたとも言える。
面白いかどうかという価値基準で生きることは楽しくて、それはそれでいいんだけど、一方で世界はその2択じゃないことも事実でもある。
その結果ピエロは孤独になってしまう。
理想像として昔言った「思想の強いビッチ系清楚ギャルお姉さん」に着実に進もうと思っていて、それって人間として強くてすごくかっこいいと思うんだけど、弱みを人に見せられないなと思う。
面白さを価値基準に生きていると、誰かに弱みを見せるって全く面白くないんだよな。
人に弱みを見せられないって、じゃあその人のことを信頼してないのかってなって、もちろん自分が弱っていたら周りの人は心配してくれているのは分かっているけど、キャパシティが有限なことに対して遠慮している気がする。
逆の立場に立つと、私はお姉さんとして人の弱みに寄り添いたいし、弱みを預けてくれていることに愛を感じて嬉しいけれど、それでも自分だってキャパシティはあるよなと。
昨日友達から誰かに甘えたいって言われて、その要求に応えたいなと思ったけれど、自分のことを労わるとそう言えなかった。
結局誰しも苦しみとそれを溜めておく限界があって、誰かに甘えるとは、誰かの容器に苦しみを移動しているだけな気がする。
そう考えると人に対して弱みを見せるのは無駄で、だけど誰か有人に言わないと解消されない気もする。
実はこの問題が解決されない理由は個人のキャパシティの小ささで、単純に広大な容量を持っていたとしたら、苦しみを一人で抱えつつ、誰かのお姉さんになれる気がする。
今の自分は誰かに頼りたいという気持ちはあるけれど、理想像としてかっこいい人間になりたくて、どうにか決別しようとしている。
苦しみと向き合っていることがつらいのは、苦しいことから解放されるかどうか考えているのはすごく論理的な空間だからだと思う。
実際私は根本的な性別の苦しみを「原理的に解決不可能」だと位置づけていたからしんどかった。
だけど、原理的に解決不可能なことを論理の風呂敷に広げても永遠解決しないんだから、そのアプローチは無意味すぎる。
論理的に解決できるかどうかではなく、感情面でどうにかしなければならないのかもしれない。
この視点は論理が求められる現代社会では異端なように見えるけれど、結局人間は論理的に正しいとしても、それを実行したいと思うかどうかは感情だ。
現在時点で感情から解脱することは難しいから、感情に訴求する方が人間的には正しい。
書きたいことがとっ散らかってしまったけれど、私は思想的に一貫しているという点でかっこいい人間になりたくて、それに対して人間は有限のキャパシティしかないから、苦しみに対して一人で向き合うことは難しい。
だから苦しみを論理の上に広げることをやめ、ピエロは踊り続けるべきなのかもしれない。