或いは、これを教典とします。
2025.05.25
最近の自分、そういうストレスを無視して頑張りすぎだ。
昔と比べたらめっちゃ楽だけど。
でも、ストレス解消方法なんてわかんないからね。
昔自由に部屋の中の物を壊せるストレス解消サービスみたいなの流行ったけど、物に当たってもストレスは全く解消されない派。
結局泣くのが一番ストレスを溶かしてる感があって心地いいけど、自分から泣くのって難しい。
泣けたときは、やっと泣けたと一旦落ち着くけど、そういうときって勿論悲しいことがあったときだからね、できればきてほしくない。
ストレスなんて溜まらなきゃ一番良いけど、できるだけ自分の好きな生活してる自分ですら難しい。
ただ、最近のストレスはほとんど「自分が嫌になる」タイプの、内的なストレスなので、自分を磨いていけばそれも少なくなるのかもしれない。
自分を磨こうとしたら上手くいかないことがまたストレスになるけど…。
ただ、何もしてない訳ではなくて、自分の問題点がどこなのかを考えるために、自分に関することに限らず、色々とアウトプットとかアクションを起こしてみて、考えたりしてる。
手帳に考えを書いたり、誰かと話したり、まさにこの日記とかもそう。
自分を見つめるって怖いけど、やらなきゃずっと嫌な自分が見えるだけだから。
自分を変えるっていう話でいえば、昔と比べてみると結構変わったな、と。
容姿でいえば、可愛くなりたいけどよくわかんないから、とりあえすマイナスからゼロにしてみようとシンプルなファッションにしてみたり、
心配性だったけど、断捨離をしたことをきっかけに、何があろうと生きてりゃなんとかなるって思って、思い切りのある行動をするようになったり、フッ軽になったり。
調子に乗っちゃうので、逆にそれを恥ずかしがらず、ピエロになってみたり。
性格を変えるとかできないから、その使い方を変えていくみたいな。
昔は全部悩んだままで、何も変わらないことにもっと悩んだりしてたけど、とりあえず行動してみるようにしたら、変わってきたり。
当たり前のことだけど、動き始めないと変わらないんだなあって実感した。
一方でこの考え方で全てが解決するというわけでもなく、この考え方では自分の考えを一旦信じて進むから、ほかの選択肢を逃してしまったりする。
自分の考えを信じようとするのは、それが一番簡単でその考えについてしか知らないから。
だから、他の選択肢も視野に入れるために、勉強しなきゃなあと思う。
結局色々考えたら、単純でよく聞く答えに辿り着くので、大人が言ってることは正しいんだなと。
でも、それを受け入れない子供が愚かかといえばそうでもないと思う。
その答えに辿り着くまでの途中式を知らないのに信用するなんて無理だから。
私は昔から進路とか答えのないことを考えるのが苦手で、だから確実に信じれる自分だけの“宗教”を作ろうと中学生のときに考えた。
都度それについて考えていくうちに、宗教には「絶対性」があるから疑わずに信じることができていて、たとえば現実の宗教では、それが偶像だったり神話だったりする。
個人の考え方に「絶対性」を付加するのは難しいのでは?とずっと思っていたのだけれど、それこそが、さっき言った「途中式」だったのかもしれないと気付いた。
子供に当たり前のことを唱える大人にとっての「絶対性」は己の経験で、その記憶が「教典」になっているのかもしれない。
そう思うと、私が作ろうとしている宗教はまさに私の中にあって、教典は私の脳内に、あるいは、これが教典になるのかもしれない。
これらも、誰かからみたら当たり前かもしれないけど、それでいい。
「当たり前」の宗教を作っていく過程こそが自分にとって人生だと思う。