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アイデンティティの内的定義について


2025.06.03

なんだかどうしようもなく寂しい。

目的地に向かって走っていたら急に目的地が見えなくなったような気分だ。

昨日はその理由が上手く説明できなかったけど、多分、単純に生活に刺激が少ないからだと思う。

むしろ、ここ数か月元気でいられたのは、物事に対する捉え方が変わって今まで興味がなかったことに興味が出てきたからだろう。

中学生の頃なんかはアイデンティティの確立で悩んでいたけれど、それはこの話に関係すると思う。

アイデンティティとは、沢山の人がいてそのうちの自分…と考えるより、「俺か、俺以外か」、つまり自分の内と外で考えた方がいいと思う。

そうすれば自動的にアイデンティティという境界が生まれるから。

さて、ここで問題なのは、アイデンティティに悩む時期は、外を定義して、相対的に自分を決めてしまうこと。(これをアイデンティティの外的定義とでも呼ぶことにする)

「あの人はこんなことができる、この人は…」と際限なく外を定義していたら、内には何もなくなってしまう。

だからアイデンティティが確立できていないと悩む。

対して、内的定義では、内を制限するものがないので、自分を広げていくことができる。

これは逆説的だが、"アイデンティティを確立するためには、自分を決めつけない方がいい"ということになる。

中学生のときの私は外的確立をしようとしていたために、「自分はこんな奴なんだ」、「自分にしかできないことはない」、「こんな自分にはできない」、みたいな思考が生まれてしまったということだ。

色々なものに挑戦していく方が、自分が広がるし、その経験の中で共通する考え方があれば、それが己の教義である。

こうやって広げた「自分」の大きさを維持することは難しい。

特に、私みたいに引きこもっていると。

そういうことで、刺激がなさすぎて「自分」が固まってしまってダウナーになったということだと思う。

こうやって書いてて「自己の宗教(哲学)の確立」っていう考え方が何年も変わってないの、これこそがアイデンティティだなあとも思った。

去年、公共の授業で提出した作文には、

  • 何かを盲信的に信じることは、再建に論理を必要としないため、対応を自動化する
  • 信じるもの、すなわち自己の哲学は、個々が先人の知識によるものであっても、組み合わせと量によりオリジナリティが生まれる(「膨大な量は質になり得る」論);
  • 既知のものの組み合わせから新しいものを生む行為が創作である;
  • よって、自己の宗教の”創作”こそがアイデンティティ確立の手段である

みたいなことが書いてあった。

自己の宗教を創作するっていう論は、「明確な答えがない問い(進路とか)を考えたくない」「創作は人生の意味の一つである」という考え方が根底にある。

そういえば、これまで「自分が定義するアイデンティティ」の話をしてきたけど、この作文の導入では「他人によって仮定されるアイデンティティ」という言葉があった。

この作文中では「他人から見られてる自分に満足いかないからアイデンティティは確立できない!アイデンティティ確率の方法を考える!」っていう導入のために終わってるんだけど、これは面白いワードだと思った。

他人から見た自分、自分から見た自分、ここに齟齬が生まれるのは、やはり外的定義によって自分を他人から見える自分に閉じ込めてしまっているからだと思う。

分かりやすく外見で例えると、実は地雷系に興味があるのに、自分には無理だと思ってナチュラル系ファッションをしている、みたいな。

なんならこれもまだいい方で、自分に似合うおしゃれが分からないから適当な服を着ているというのも十分にありえる。

自分らしさを決めてしまうと、かえって自分らしくなれないのだ。

これの対処法は、難しいし、私にも十分にできていないことだけれど、色々なものに興味を持ち、それを取り込んでいくことだと思う。

これを続けていくことで、「自分」は柔軟な形になり、いつしかなりたかった自分になっている…と思う。

人生ってまじで「行動→経験→学習」のサイクルでできてるなあ。