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言語より人間であれ!


2025.06.09

ふと、周りに生成AIに悩み相談をしている人が何人かいることを思い出した。

文字の塊に悩み相談をして、気持ちは晴れるのだろうか。

まあ、その人達は多少晴れているから話しているのだろうが。

正直、私には「最近はみんな何でもかんでも生成AIに頼ろうとして…」と嫌気が差している。

生成AIが便利なことは分かっているし、私も使うときもある。

でも、AI特有の不気味の谷のような妙な気持ち悪さのあるイラストや文章を見ると、寒気がする。

尤も、その寒気を感じていないのか、これをそのまま良しとする人々が恐ろしい。

人間らしからぬものを人間のように扱うとき、我々が人間である意味はあるのか。

彼らにとって、私の文章と、ベクトルの中で生成された文字の塊は同じに見えているのだろうか。

それとも、私が変わらないものに差異を見出しているだけなのだろうか。

時々、AIはよく人間の脳と似ていると感じる。

動画生成AIは、1フレーム前の絵を元に次のフレームを生成する。

だから、急に物質が違うものに変わったりする。

人間の想像も同じだ。

先の、AIに悩み相談していた友人は、夢の中である人が違う人に変わってしまうのを見たという。

人間も、夢の中で離散的に想像している。

また、私が考えるとき、考えるより先に言葉が並んでいく。

いわゆる自動書記というものに近いかもしれない。

これは、おそらく次に来る言葉を無意識に確率的に予測しているのだろう。

専ら生成AIと同じだ。

こう考えると、生成AIとは人間なのかもしれないと思ってしまう。

けれど、我々にはイデアがある。

私は言語だけで考えているわけではない。

言葉がなくとも、仮に言葉を知らなくとも、思考はできる。

機械は、概念を概念たらしめる言語があるだけで、概念ではないものは存在しない。

事物を事物のまま捉えることができるからこそ、我らは人間なのだ!

こうやって文章を書いていると、自尊心が満たされていく音がする。

“言葉を選ぶ”ことができている間、私は人間でいられる。

言葉が我々ではない、我々の媒体が言葉なのだ。

人間であるために、思考し続けましょう。