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正直な話、自分が好きだ


2025.06.14

私の頭はどうやら中3~高1のどこかで、少し文系っぽくなった、若しくはただ頭が悪くなったらしい。

別に、天才的な文章力を手に入れたとかそういう話じゃない。

私が理系っぽかった(?)とき、頭の中には常に数学・算数の問題があった。

考えることがそれしかなかっただけかもしれない。

単純に2,3桁の四則演算をランダムにしてたり、最近やった授業から、それに関する規則性を考えてみたり、やってること自体はそんなに難しいことじゃなかった。

だけど、今思えばそれで慣れてたから暗算主義なんだと思う。

この頃は、頭の中で計算のメモをしたり、言葉になる前の考えを見たりと、頭の中をはっきりイメージできた。

中3の頃から、文章をよく書くようになった。

仲間内でちょっとした創作…といっても身内ネタに塗れたただのおふざけだけど、毎日色々書いてた。

そのうち、頭の中から数字が消えて、考えている言葉がよく聞こえるようになった。

思考が全て言葉になるから、言葉になる前の思考をこねることができなくて、思考が言葉に囚われているようだ。

高1から、頭の中から言葉が止まらなくなった。

それをいつからか、自分の思想の断片だと思い、頭が言う通りに文字を書き、ツイートし、次第に動画も作るようになった。

それはほとんど、自動書記であった。

2025年06月09日 - 言語より人間であれ!|yusquid1,669字sizu.me ↗

いつしか、見られること自体を気にしてしまって、自由に言葉が出なくなった。

そこから数か月のリハビリを経て、今に至る。

というか、この日記も、リハビリの一環になっている。

長々と書いたけど、このあと何を言いたかったのか忘れてしまった。

だから今ここまで読んで思ったことを話す。

この変化によって、私の数学力は多少下がっただろうけども、良い変化だと思う。

自動書記のように言葉を発することで、無意識下の私の思考を引きずり出すことができた。

引きずり出された思考は、何度か繰り返されることで、私の宗教となった。

また、言語学に興味を持ったことをきっかけに、「私は理系で〇〇が好きで××な人で…」というような外的定義に依存することがなくなり、趣味が広がった。

このように、変化はアイデンティティの構築に役立ったと思う。

一方で、「言外の思考」にもっと触れたいという欲求がある。

もちろん、人が進化し文明を発達させた要因の一つが言語だということは分かっている。

それでも、この流れてくる言葉とは別の、私が意識的に考える思考に深く陥りたいと、思ってしまうのだ。

この日記を書くにあたって、ふと1時間弱の間言葉がなくなるまで吐き出し続けたことを思い出した。

そこで最後に書いてあったことが面白かったので引用しておく。

知覚貸越論は貸越の目線で語ったものであって、知覚があるとき同時に反応がある

反応の限度超過もまた語られるべきであって私はそれを今しようとしています

ただ言葉を出し続けることでそれを止めれば何も反応しなくなるのではないでしょうか

空になりましたが本当に救いなのでしょうか

財布の中身を無限に仮定して物を購入し続けることと等しい

私の思想はいつか枯渇しそのときただただ騒音的に思想を吐き出し続け無反応を起こすことができなくなるような気がします

まだ不十分で、泣きたいのに泣けないような気持ち悪さのように苦しいです

あの頃の自分は、他人に伝わるかより、考えのニュアンスに合う言葉を選んでいたので、(自動書記の推敲?)しばしば自分でも見返して何言ってるか理解するのが難しいことがある。

ただ、理解してしまえば、ユニークなことを意外な言い回しで話していて、見ていて面白い。

書いた本人としては納得感もある。