当たり前に生きているだけ
2026.02.03
社会に接しないで見ないふりをしている己の醜さに嫌気が差す。
私は悪意に塗れているわけでもないし、誰かを加害したいわけでもない。
それなのに、酷く醜悪だ。
むしろ、加害される側だろう。
人が害虫を嫌うように、私は理解されないし気持ち悪がられる、そういう醜さがあるんだろう。
それは人々にとって当たり前の出来事で、実は酷い悪意なんかないのかもしれない。
害虫に対する防衛本能であって、そうするしかないのかもしれない。
誰が悪いとも言い切れない。
私は私を傷つけてくる人を差別主義者だと糾弾するつもりはないし、それに賛同も得られないだろう。
皆が皆の当たり前に生きているだけで、それが噛み合わないだけだ。
それはある意味、わがままなのかもしれないけれど、わがままに生きる権利くらいあるとすら思う。
だから誰も悪くなくて、それなのに加害は発生するから、誰かに罪を求めてしまう。
そうやって、自分をすり潰してきたのだろう。
彼らが当たり前をわがままに生きるように、私もそうすべきなのかもしれない。
対立は避けられないだろう。
だけど、そこに悪はないことを信じなければいけない。
正義とか悪みたいな二項対立は幻で、誰もが当たり前に生きているだけということを、噛み締めなければいけないんだろう。
人間のコミュニケーションとは、前提の共有だった。
同じ知識的背景を持つことで、人は快く話すことができ、それが面白さである。
その心地よさのあまり、私たちはその前提=当たり前に浸かってしまう。
だけど、その当たり前が通用しない人に出会ったとき、それは凄く衝撃的だし、傷つくと思う。
前提を共有していなければ、嫌われる。
だけど、全く同じ前提だけを強く信じて生きていくことは、またリスキーだ。
知らない当たり前を受け入れる寛容さが必要なのかもしれないし、それは酷く恐ろしいことだ。
つい、保守的な考え方に偏ってしまう。
私と同じような人だけが周りにいて、同じことを共有して生きていける。そう信じたくなる。
だけど、これから社会は多様化していくんだろう。
きっと、ある人から見れば、私だってその多様な人の一人だ。
自分と同じ=スタンダードではない。
どこかに中心を置く自文化中心主義はきっと、科学的に正しくない。
だけど、実際に自分と背景が異なる人に出会ったときに、本当に受け入れられるだろうか、そして、私はその人に受け入れられるのだろうか。
それは本当に未知の領域で、宇宙に足を踏み込むような恐さがある。
それに耐え得るためには、自分を強く信じることが必要だ。
相手の当たり前を受け入れても、飲み込まれてはいけない。