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サイゼで食事する哲学者の問題を考えた


2025.07.16

嘘と本当のバイナリデータ|yusquid491字sizu.me ↗

この文章を書いたあと、読んだ友達から、連絡がきて、今日サイゼに行って話してきた。

中学校時代からよく人の精神について議論してた仲間のうちの一人なので、ひさびさに話せて嬉しかった。

今日までに私の書いたしずかな記事101つ全て読んできたらしい、数万文字はあるだろうし、読むの疲れるようなものもあるだろうに、すごすぎる。

もはや書いてる私より読んでると思う、ありがたい。

彼曰く、具体的な内容は違うかもしれないけど、考えの構造?が似てそうとのこと。

ジェスチャーを交えながら話してた内容だから、言葉にするのが難しい。

自分の内に、外に出てこようとする何かエネルギーを持ったものがあって、それを抑えつけている。

抑えつけることにリソースを多く割いているから、学校生活などの社会的な営みに使えるエネルギーがほかの人より少なくて、あまり上手くできなかったり、疲れてしまう。

自分たちはそういうところが似てるのではないかと言われた。

彼は、抑えつけることにエネルギーが割かれすぎて、通学するまでが既にしんどくて休んでしまい、出席日数がやばいらしい。

たしかに、この記事でも、常に苦しい考えが頭にあるというようなことを言っていて、実際私はそれを理性で我慢している。

「繊細」は一般的に外側のことについて言われるけれど、これは内的な繊細とでも言えばいいのかもしれない。

社会的・理性的な自分が、リソースを割いて絶対的な自我を抑えつけているけれど、社会的な営みをするためにもリソースを割かなければいけない。

そういう制御ができなくなったときに、デッドロックして何もできなくなり、絶対的な自我が解放されてしまう。

そうして、社会的な行動ができなくなってドロップアウトしそうになったり、気分がおかしくなる。

彼はそんな中、解放感を感じるそうだ。

話を整理していくと、「社会」「社会から見た理性的な自分」「社会に関連せず存在する絶対的な自分」という三層があるのではないかという話になった。

「理性的な自分」に抑えつけられている「絶対的な自分」が解放されることで、自分らしくいられることに解放感を覚えるが、「社会」に適合しなくなったことでしんどくなるということかもしれない。

これを踏まえると、私の矛盾的な自己嫌悪も説明できるような気がする。

「社会からに関連せず存在する絶対的な自分」の定義についてはまだ揺らいでいるような気がするけれど。

私は、エネルギーの高い「絶対的な自分」について、「社会」の威を借りた「理性的な自分」が否定している状況にあって、それにより、「絶対的な自分」は自身を肯定しているのに、「理性的な自分」はそれを否定しているという矛盾的な自己嫌悪が起こっているのだろう。

同様に、周りから見て、「何もしてないくせに疲れている人」というのは、「絶対的な自分」のエネルギーが高く、「理性的な自分」が社会的行動をろくにできず疲れ果てているのだと思う。

私達はこの三つの層とそのエネルギーについて考えたが、他にも沢山のパラメータがあって、自分たちにとって目立つものを見つけて取り上げただけだと思う。

例えば、「絶対的な自分」のエネルギーが低い人は、内的な悩みが少なく、仕事や受験、趣味など外的なものに興味が向いているだろう。

更に、「理性的な自分」のエネルギーも低かった場合は、社会的な営みに疲れ果てているかもしれない。

今回考えた概念では、かなり考えが整理されて面白かったと思う。

矛盾と自己嫌悪というワードは私の過去ツイートの頻出ワードで、検索してみたら同じようなことを10回くらい言ってた。

「自分の存在自体は好きなのに他が全て嫌い」「自分は好きなのに自分の性質全てが嫌い、自分という概念・意識と自分の物質的・精神的な性質の間に乖離を感じているのかもしれない」などというツイートも。

これに関しては、「絶対的な自分」/「理性的な自分」にどう切り分けるかが難しそう。

2つ目のツイートでは、自分のことを意識と身体で切り分けているけど、"精神的な性質"を身体側に分類している。

これは多分性格とかのことを言ってるのだと思う。

なんとか解釈するなら、性格=社会で生活するために理性的に身につけたもの、なのかな。

ツイートを記録し始めた去年4月から7月あたりまで、自身の性格や能力を批判するツイートがかなり多い。

多分鬱なんだろうなあと思いつつ、これは性格まで自分だと思ってないってことかと。

この頃、「転生をしたいけど、私は宗教を信じていないから死ねない」というようなことをよく言っており、記憶さえなくても、自分を自分だと思えば自分であるという、「絶対的な一人称」が存在していると信じていた。

ついでに言っておくと、

「自殺と自死は明確に違って、環境に苦しんでる人の死にたいは自死願望だと思う、ただ逃げ道がなくて死を候補にしている

一方自殺願望は自分に力強い恨み憎みを持って、自分が他人のように嫌いすぎて殺したくなる」

「死にたいんじゃなくて殺したいんだ自分を」

など、理性的な自分について恨みを持っていることを明かしている。

「自死願望」については、エネルギーが社会に向いている人に当てはまりそうだと思った。

色々過去ツイートを掘り出して書いてみると、自己嫌悪は双方向にあったのかもしれないと気付いた。

性格や能力などを持つ理性的な自分に対して、絶対的な自分はその程度の低さを憎んでいるし、理性的な自分は、絶対的な自分が社会倫理に適合しないと思って否定している。

単純に見えて定義が難しいなあとも感じました。