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疎外と爆発、そして止揚。


2025.07.28

意志・理性論(仮)について考えてた。

一応仮とは言ってるけど、なんかこれで定着しそうな気がする。

lIlIlIlIlIlIlIlの記事にて、「爆発」という概念が導入された。

これは、我々がよく議論していた独自の概念で、簡単に言うと、社会から小さめのドロップアウトすることである。

この論から言うと、爆発とは意志のエネルギーが爆発し、社会から離脱することとなる。

これについて、消極的な社会への反発と、積極的な社会への反発があるのではないかと思う。

消極的な社会への反発は、社会から離脱して、社会に対して何も行わないことである。

私が主に想定していたのは、こっち。

逆に、積極的な社会への反発とは、意志のエネルギーのままに社会に対して活動することであると思う。

これは仕事になる可能性があるから、場合によっては「ドロップアウト」とは異なる結果になると思う。

しかし、仕事にしてしまったら、完全に意志のまま動くことはできないわけで、理性による抑制も再開される。

それでも、爆発前よりは意志にとっても心地が良いんじゃないかなと思う。

これまでは、意志・理性(+社会)の対立軸を元に話してきたが、どちらかのエネルギーを強めるという手段以外にこれを解消する方法はないのか、意志・理性を対立という方向から脱却できないのか考えてみる。

たとえば、世界は事実の集合で、社会はそのある見方でしかないとか。

そう考えたとき、事実は事実でしかなくなり、ある程度都合よく社会を解釈することもできるんじゃないか。

もちろん、あまりにも事実に反するような解釈は難しいけれど、局所的な事実は局所的でしかないと考えることはできる。

理性は社会的なのだから、その社会を、意志と似た方向にあるんだと解釈すれば、理性・意志の対立は少なくなる。

理性の再定義である。

書いてて、「それができたら困ってないんだよ!」とか物凄く思ってる。

多分、一番厄介なのは理性だと思う。

社会をそういうものと解釈している正体こそが理性なのだし、その解釈が意志に適っていないと分かっていながら、”社会的な"理性を持とうとする。

これはオートマチックな反応だと思う。

臆病者が、お調子者のフリをする癖がついてしまって、それが抜けないようなものだ。

理性は宗教的だ。

自身を民主的に運営するならば、理性の言い分が本当に正しいのか、問い直すべきだ。

意志・理性の対立は、ヘーゲル哲学による「疎外」という概念で表すことができるかもしれない。

疎外とは「自己の精神が自己自身を否定し、自己にとってよそよそしい他者となる状態」である。

これは、意志が理性と対立していることと同じように思える。

本読んだわけじゃないので適当なこと言えないが…。

ヘーゲル哲学では、労働によってこの疎外から止揚へ至り、意識が理性へと発展していくらしい。

ヘーゲルの止揚の言い方では、止揚によって成立した「理性」というものが、人の意識として完成した形のように語られているが、むしろ意志・理性論では、「意志」こそが本体であり、それと社会・理性が対立していることが問題だと言っている。

ここは違うところかなと思う。

(ヘーゲルの「理性」と、意志・理性論での「理性」は若干意味が違うかも)

「意志」側を自分自身だと主張している哲学者も見てみる。

ヘーゲルは、「疎外」について、これを経て人間はより高次の段階へと行く(弁証論)のだと肯定しているが、マルクスはそれを批判し、労働者は自分らしさを投げ出して(疎外して)労働しているが、投げ出したままであると主張した。

マルクスの主張は、要するに社会(労働)により、自分自身が疎外されているのだということになる。

しかし、マルクスは労働しない自分、つまり社会的な環境に置かれていない自分こそが本来性のある自分だと説いたわけではない。

単に労働時間を短縮して、職にとらわれた、疎外状態から脱却しようと主張したわけだ。

「疎外」は社会的ではない本来状態というものと共に語られることが多いが、そのようなものの中に人間が生きたことはないし、そこへ向かって行くのは間違いだと思う。

社会によって「疎外」は引き起こされるが、社会から完全に脱却することは不可能である。

これがジレンマであり、「爆発」という状態が完全な解決策ではない所以であると思う。

先に挙げた理性の再定義も、意志を苦しめている社会はもっと現実的なもので、再定義によって疎外を回避することは難しいかもしれない。

ヘーゲルの理論も、労働や社会によって生み出される「理性」を評価していて、むしろそこに対して対立していた「意志」は止揚の底に沈んでしまっているように思える。

ヘーゲルの理論は抽象性に隠されていて、面白いものの具体的な答えが見えなかった。

とはいえ、意志・理性論に疎外という概念を取り入れるのは、面白い取り組みだったと思う。

結局のところ、この文章の中で示された解決方法は、「意志による積極的な反発を仕事にする」ことだけだ。

これなら、意志を解放しつつ、社会的な営みも送ることができる。

これは社会の中にいながら社会による疎外から脱却できる。

とはいえ、これには相当な意志エネルギーがいるし、それが成功するとは限らない。

難しいものです。

考え込みながら文章書くと、答えが見つからなくて綺麗なオチで締められなくて、これも難しい。