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『全ての根源の感覚』を読んで


2025.07.19

lIlIlIlIlIlIlIlのしずかな記事を読んでの感想を書こうと思う。

sizu.mesizu.me ↗全ての根源の感覚|lIlIlIlIlIlIlIl3,566字sizu.me ↗

これは、07月16日にサイゼでlIlIlIlIlIlIlIlと話したときの日記(以下記事)をlIlIlIlIlIlIlIl本人が読んで、書かれたものである。

リアルで話したことを日記にまとめたら、そこから繋げて書いてくれて、それをまた日記で言及するって面白いし楽しい。

上のlIlIlIlIlIlIlIlの記事と、今からの文章を一緒に読んでもらえば読みやすいかもです。

2025年07月16日 - サイゼで食事する哲学者の問題を考えた|yusquid2,486字sizu.me ↗

まず、自分の中の意志がふわふわしているという表現。

私は同意も否定もしかねるかなと思った。

というのも、私はその意志がどのようなものか考えるのを極力やめていて、それこそが抑えている行為そのものでもある。

強いて言うなら、浮き上がるような感覚で、それを抑えるのをやめてしまったら、外に広がってしまうような感じ。

どっちかというと、重たくもあり、ふわふわではないかも。

彼は飛び出ると表現しているので、ここは少し違うかもしれない。

一方で、理性側がロボットのようだという表現には共感する。

抑えようとしていることを感じるとき、無機質な感覚を覚える。

無理にぼーっとしようとしているような。

これをしていると少しづつ疲れてしまう。

意志/理性のどちらに本体があるかは定かではない。

どちらも自分ではあり、それを自分がどう好きかという話でしかないと思う。

また、意志を抑えなくなる状況について。

本音では意志を尊重したいと思っているけれど、理性で社会性を保っている。

疲れてしまったときに、理性が諦めて、意志が露出する。

しかしその意志は不完全だったり、社会に攻撃されると思い、泣いてしまう。

私の場合、理性は積極的に意志に同調するわけではない。

そもそも理性は、意志に対立する概念というよりは、社会と意志が対立しているときに、それを上手く調整しようとする機構だと思う。

社会と意志が対立しているのにも関わらず、意志が理性に抑えられないということは、理性が調整機構としての役割を放棄したことになる。

私の場合、それは諦めで、彼の場合、それは自主的な共感なのかもしれない。

この記事読んでて、私も中学校行くのしんどくて、適当に公園とか歩いてた頃あったなーと思い出した。

あの頃学校行っても毎日早退してた気がする。

何がストレスだったんだっけ。

まあそんなことはいいや、あまり思い出せないし。

先日の会話では、社会的な目的に向かって歩いている人間についても触れたが、ここは、やはり社会-理性-意志の三層は必ず存在し、その強さや向きの違いによってそうなっているのだと思う。

意志が小さい人が、社会に理性を求められて生きてきたことによって、意志が段々と社会や理性の方向に向いてきたのではないかと思う。

これはその人にとっては必ずしも悪いことではないんだろうが。

主に、理性と意志が違う向きを向いていることを前提に話してきたが、意志が社会や理性の方に向いている人は、その角度の差が小さいのだと思う。

かつ、意志が小さいことによって、実は理性と意志は少し違うのに、意識的にそれに気付いていないのではないか。

無意識に感じていたとしても、それが小さいものではあるから、見落とされてきたのではないかと。

どっちにしろ、その人は社会的な意志を持っていることが自他ともに認められることになるので、観測上はあまり考える意味のない問いかもしれない。

私はどちらかというと、本当にその仮説が正しく、少なくとも意識的な範疇でも、社会的な目的に沿って生きているのかが知りたい。

高校の人となんか合わない問題。

これ、lIlIlIlIlIlIlIlなど、私の周りの人が高校入学時から感じていた問題で、実際私はそれも一因として全日制やめちゃったりしたし、あんまり周りから高校の友達と一緒にどうこうっていう明るい話を聞かない。

私達が優れていて、彼らが劣っているとか、またはその逆とか、そういう問題ではないと思う。

そもそも、受験勉強を経て高校に入っているのだから、その時点で、受験勉強していい高校に行っていい大学に行っていい仕事に就いて…みたいな、社会的な目標に合致した人間が集まりやすい。

私なんかは、将来を全く見ておらず、楽しいと思う勉強だけしていたので、社会的なことは何も考えてなかった。

周りの生徒と、人生の苦しみ方、社会の捉え方、興味の方向などが違って、入学から一か月くらいは誰とも話さず高校生活を過ごしていたし、友達ができたあとも、なんだか上っ面感が抜けなかった。

上手く接することができなくてごめんよ…。

他者との違いで言うと、「好き」という感情を持つのが下手すぎる。

いわゆる推し活。

好きなアーティストとか、好きなアーティストとかはいるけれど、それに関する情報を漏れなく見て反応するみたいなことは全然できない。

それは疲れるし、好きなものを追うことは私のアイデンティティではないし、好きなものは癒しになるがそれに依存し続けて生きている訳でもない。

アイデンティティ、これ大切なワードかもしれないな。

みな、外にアイデンティティを求めすぎているのかもしれない。

多分、意志が社会と同じ方向を向きすぎているから、そこに独自性を見出せなくて苦しんでいる。

なので、社会との関わり方にアイデンティティを求めているのではないかと。

人間の生まれつきの心が白紙ならば、この獲得の仕方は自然にも思えるが。

一方で、私の主張するアイデンティティと創作の理論に基づくと、これはあまりにもアイデンティティとしては脆弱なのではないかと思う。

全ての創作は、細かく分割すると、既存の創作物の組み合わせでしかない。

だが、その"組み合わせ"こそがその創作の独自性である。

2つや3つの創作物による組み合わせでは、その組み合わせもまた既存となるが、多くのものを組み合わせることで、同じ組み合わせが存在する可能性は低くなり、既存物の集合でありながら、新規の創作物となり得る。

同じように、社会に存在するものが大量に組み合わさってできた人間は、新たなアイデンティティ性質を持つ。

「○○を好きである」という情報一つでは、同じような人間が多すぎて、アイデンティティとはなり得ない。

おそらく、重課金したり、コスプレしてみたり、ファンの中で目立てるようにその「好き」の種類を追い求めた先が推し活なんだと思うけれど。

意志自体にアイデンティティを見出さない人間は、社会との関わりやその種類にアイデンティティを求めることが分かった。

一方で、意志が社会と違う方向を向いている人間はどう見出すのか。

私の場合、「自身の考え方」をアイデンティティだと感じている。

私はTwitterを思想置き場として使っていて、それを定期的にNotionにアーカイブしているのだけれど、見返してみると同じこと言ってるっていうことがよくある。

何年も前から同じことを主張していたりして、それも一つ二つじゃないから、これこそが私の同一性だなと思って嬉しくなる。

(一方で、カルト教団の教祖みたいな思想書いてあることあって怖くなる)

日記でいっぱい言葉が思いついてかけたときが生活の中で一番嬉しい。

3000字くらい書いて疲れてきたからこの辺で締めようと思うけれど、人はみな、意志の方向に目的や嬉しさを求めていて、また悲しみを得ている。

意志が社会の方向に向いているときは、それを社会から得ようとすることが考察された。

個人的には、意志が社会と違う方向を向いている人間が、同じ年代ではどこにいるのか、そして将来どのような進路を辿っていくのかが気になった。

会社員とかなって生きていける気がしなさすぎる。