共感に溶けて
2025.08.15
リア友のツイート。
社会とか学校の混沌さというかカオスさとそれを当たり前に受け入れれてる人々を俺の神経は怖がってるんだー
自分はなかなか受け入れられないんだー
受け入れようと感覚に抗うと爆発するんだー
だけどカオスさは嫌いって割りきるんじゃなくそれに対する感覚を芸術で表現して乗りきりたいんだー
意志理性論の話、最初の行も気になるけれど、今日取り上げたいのは最後の行。
「ストレスに対する感覚を芸術で表現して乗りきりたい」という気持ち。
この気持ちは私もずっと抱えてて、最近気になってて、かつ周りからその声を聞く機会が何度かあったので、これについて書きたい。
何か嫌なものに苦しんでいるとき、その気持ちをどうにかしたい。
その方法を考えたときに、なぜ創作に行きつくのか。
そして芸術は私たちに何をもたらしてくれるのか。
前提として、多くの場合その創作行為は、ストレス源の解決方法にはならないと思う。
なんというか、苦しい世界の中ともに生きる親友や恋人のような、「あなたがいればなんとかやっていけるかもしれません」というものな気がする。
創作とは、コミュニケーションなのかもしれない。
創作の渦中で、自分自身を引き出して対話して、その気持ちを具体的にしていく。
気持ちの整理であり、そしてその気持ちへの共感を得たい。
出来上がった芸術を見た人に共感してもらうというよりは、創作して、出来上がったそれを見ている自分自身が、互いに共感するという方が大きい。
昔の私は、「思考を正確に写し取らないと、苦しさが言葉と共に抜けることはない」と言っていた。
今私がこの言葉について考えるのなら、「抜ける」ではなく、「溶ける」にしたいな。
行為自体は荒くて、「発散」というイメージかもしれないけれど、その中で私の心の苦しみは溶けていると思う。
線香花火の光が水面に融解していくような、針で苦しみをかき分けていくような、そんな感覚が私は欲しい。
これには、具体化とそれへの共感が必要だ。
だから、自分自身と対話して、苦しみを言葉なり、具体化する創作が向いているのかもしれない。
そして、私達はときにメタファーに苦しみを見出したくなる。
というか、数行前のように、感覚を表現しようとしたら、それに近い感覚を言うことになるので、メタファーになるのかもしれない。
そして、メタファーは具体事例ではなく、具体の感覚なので、他者の芸術からも共感を得られることがある。
具体化された苦しみに共感することで、苦しみを溶かしているのだから、未来を理想にして、現状を無責任に肯定する創作は私は苦手だ。
現状に苦しんでいる私だって、私なのだから。
幸せだけが私ではないのだから。
自分の苦しみと同じ感覚の芸術が得られることは少ない。
でも、たまにはある。
だから創作して、一方で他者の芸術も見る必要があると思う。
そして少しでも苦しみが減るといいな。
私の言葉も、たまには誰かに刺さるといいな。
ところで、触れ忘れていたことがある。
創作の結果として共感を受け取ると言ったが、その行為の原動力はどこから来ているのか。
先の友達は、反抗心による擬似的な反抗か、反抗心によって社会で動けなくて溜まった透明なエネルギーなのか、好きで考える楽しさなのかと。
彼は反抗心が強くて残りは好きだと思う、と言っていた。
私が「創作したい」と感じるときは反抗心だけど、実際に創作しているときの力は透明なエネルギーが多い気がする。
前者は、溶かしたいというより、発散したいという気持ちが多いと思う。
ギター・ベースかき鳴らしたいとか、自分で物凄い物語や曲を作ってやりたいって思うときはこんな気持ち。
このような気持ちで創作しているのは、#emotionタグのときとかかな。
emotion|二葉澪降「emotion」のタグがついた二葉澪降さんの記事一覧sizu.me ↗もうエネルギーが出るままに書いていて、かなり暴力に近い。
「創作も暴力も、元のエネルギーは同じなんだと思うよ、暴力を選ばないようにしたいね」なんて、昔に言ってた。
ほんとその通りだ。