私というネットワーク構造
2025.12.29
結局自分が悩んでることってアイデンティティなのかなあって思った。
自分が思ってる自分と、周りから見られる自分に齟齬があって、自認を否定されるかもしれないという恐怖と、周りの認識に納得させられてしまって、自分すらもその自認を否定してしまうという苦しみ。
結局どの部分を切り取られてしまうかっていう話だと思うんだよな。
自分が思ってる自分も、周りから見える自分も、どちらも存在するものだとは思う。
その中でどの部分が印象に残ってしまうかっていう問題で。
アイデンティティって多面的だから、きっと要素がネットワーク構造になって繋がってると思うんだよな。
その中にあるハブが人格であり、場面や相手によって変わってくるんだと思う。
私はそういう状況に対しての自己の一貫性を保てていないと感じていて、そういうときに人に○○だと思われてるなと思うと、自分とは○○な人なのかもしれないと落ち込んでしまうのだと思う。
ぽわぽわしてる私もいれば、怒ってる私もいるし、拡張子に興奮してる私もいれば、鏡の前でニコニコしてる私もいるし、ブスな自分がいれば、可愛い自分もいるし、おばちゃん顔の私もいる。
同じ物質だけど、その中には沢山の要素があって、ある程度性格がハブとして存在する。
多分、切り取ってそれだけを自分だと思ってしまうのは、ある人格とある人格が上手く結びついていることを理解できていないからだと思う。
例えばかわいらしい自分とオタク気質な自分がいたとき、その二つを見比べてオタク気質なのキモイなと思ったり、あるいは片方だけを見て自分をそういう人間だと思ってしまう。
本当はその二つを結びつける何かがあるはずなんだよ。
それを理解できていないから、切り離されているように感じて、気分が沈んでいるときに片方を見て怯えてしまうんだ。
本当は一言では片づけられないはずなのに、"○○らしさ"という一つの軸で評価してしまい、自己嫌悪に陥る。
まず、その軸の中ですら相反する要素があるはずだし。
私は、自分という人間を評価されると怯えているのではなく、自分という人間の一部の要素だけを見て決めつけられるのが怖いんだと思う。
そして、自らも決めつけてしまっているんだと思う。
どうすればいいんだろうか。
一要素だけを人格として何からしさに当てはめてしまうのはよくないと思う。
さっきの例で言うと、オタク気質っていうのは要素の一つであって、それをオタクのステレオタイプの像に当てはめて一概に悪いと言い切ってしまっているのが問題だ。
オタク気質という要素自体は、それ単体では悪いものとはまだ言えないし、場合によっては良いことももちろんある。
だから、一要素→アイデンティティというすり替えで自己を全否定してしまうのではなく、その要素だけでは全体評価できない、まず悪い要素ではないかもしれないと思うのが大切かもしれない。
もちろん、自分をプロモーションしていく中で削っていくべき要素もあるとは思うけれど、それは外面的な話であって、内面から否定する必要はないと思う。